種子島 歴史 種子島は、九州最南端の佐多岬から南へ約40kmに位置します。 南北に58kmにわたって広がり、標高300mに満たないなだらかな山が連なり、背骨のよう南北を貫く丘陵地帯が特徴です。気候は温暖で、台風常襲域でもあり、冬は北西からの冷たい季節風が吹き荒れます。 種子島は、黒潮の恩恵を受けて、南蛮貿易の舞台でありました。島内では数多くの遺跡が発見されていますが、その多くは1990年代後半に発見されたものです。日本の文明・文化の起源をさらに遡らせるような新しい発見が相次ぎ、世界中の考古学者や研究者の注目を集めています。なかには、旧石器時代、約35,000年前の日本最古の人類の生活の痕跡も島で発見されました。 縄文時代 縄文時代の種子島では、九州島南部の縄文文化とほぼ同一の土器様式が確認されています。この時代の島での最古の痕跡は、奥野仁田遺跡と鬼ヶ野遺跡で発見され、縄文時代初期の住居跡も発見されました。竪穴式住居は、形が円形であることと、半分が地中に埋まっていることによって、冬の島に吹き荒れる季節風にも耐えることができました。弥生時代後期から古墳時代併行期の種子島では、日本本土と異なり、古墳や墳丘墓などはつくらず、海岸の砂丘に墓地をつくったのです。 黒潮 kuroshio 種子島は、特に中国との南蛮貿易の拠点として、古くから日本経済の要として栄えてきました。これは、黒潮がぶつかる島の地理的位置が有利に働いたと考えられます。また、種子島は宮崎県との行き来も盛んで、かつては浦田港から毎週船が出港していました。近年、西之表市においては、木片の集合体で人物や魚を描く「黒潮アート」も、アーティストと地元住民が一体となって地域を盛り上げる契機となっています。 ポルトガル人の上陸 北に流れ行く黒潮は日本と結びついて種子島を豊かにし、南から流れ来る黒潮は、古くより種子島の地域社会に予期せぬ大きな影響を与えて来ました。1543年9月23日、ポルトガル国籍の乗組員2人を乗せた中国の大型船が、強い嵐で難破しました。このとき、島民は2人のポルトガル人乗組員に対して反感を持つどころか、好奇心を抱きながらも温かく受け入れ、鉄砲を購入する関係にまで至りました。その友好の歴史は途絶えることなく、1543年に来島したポルトガル人の一人、フェルナン・メンデス・ピントを生んだヴィラ・ド・ビスポ市と西之表市は姉妹都市にもなりました。また、1970年の大阪万博にポルトガルが出品した「海の男の像」が西之表港の日ポ港公園内に寄贈されるなど、種子島とポルトガルは現在でも深く結びついています。種子島は常に外国人を歓迎し、もてなし、異文化を受け入れて来ました。例えば、アメリカ人から持ち込まれたサーフィンというスポーツも、島に根付いています。